第七十四番 久遠山
海蔵寺(曹洞宗)
御本尊 十一面観世音菩薩
御真言 おん まか きゃろにか そわか
御詠歌 いまよりは 心も清く 海蔵寺 久遠 浄土へ まいるうれしさ
縁起
当寺は応永年間(一三九四〜一四二七年)中国の僧、慈眼禅師が力箭山(行者山)上に創建し、永正元年(一五〇四年)興雲宗繁を洞雲寺より迎え曹洞宗に改宗したと言われている。ご本尊は十一面観音で応永時代の創建当時にお迎えしたらしく、仏師集団である印派(いんぱ)に属する仏師により造像されたと思われる。
大内時代は大内家家臣 草津城主 羽仁家菩提寺。永正三年(一五〇六年)鐘に久曾津村と字名が有る。(新修広島市史第六巻国郡志御用に付したしらべ書出帳)戦国時代(毛利時代)には 毛利家家臣 草津城主 児玉家菩提寺。弘治元年(一五五五年)厳島合戦で毛利の陣中となる。天正十六年(一五八八年)毛利輝元上京の折、当寺に宿泊し草津港より出発した。(天正記)当時の石高は、「毛利氏八ヶ国御時代分限帳」によると二一、一七一石(安芸、備後、周防)江戸時代(浅野時代)は、浅野家第三家老で、東城を治めていた浅野家(堀田家)の菩提寺として明治初年まで続いた。
元々堀田家は明智光秀の家老であった。堀田高勝が、浅野幸長の守役として浅野家に仕へ、後に浅野家の姓を賜る。元禄二年(一六八九年)鐘楼門建立(山門棟札に記載)。(この頃、行者山より本堂を現在地に移転し、石組みの庭を作り境内を整備したと思われる。)元治元年(一八六四年)蛤御門の変で幕府は長州藩追討を決定。長州藩は広島藩に仲裁を依頼。幕府と長州藩の談判が当寺で開かれた。(五日市町史上巻より)
明治六年(一八七三年)草津小学校の前身である寺子屋立基館(りっきかん)が始まる(草津の歴史年表)大正十五年(一九二六年)山津波により本堂被害を受ける。墓所には東城浅野家歴代五輪墓や北条氏直、尼子方の武将山中鹿之助の次女、盛江の墓がある。
【巡拝ガイド】
東西コースの巡路 広島駅北口→ 74海蔵寺→ 10眞光院交通便
広島電鉄宮島線 「草津駅」下車山側徒歩3分車 西広島バイパス 田方バス停より徒歩13分、車で2分(目印は古田中学校です。)
車 山陽自動車道 五日市インターから西広島バイパスへ田方陸橋渡りすぐ左折し、50メートル先を右折(目印は古田中学校です。)※駐車場有り